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てんき
筋金入りの「お天気屋さん」です。空模様の「天気」だけでなく、人生の「転機」や言葉の由来など、古今東西のいろんな「てんき」を探求・記録しています。
晴れの日も雨の日も、ふらりと雨宿りする感覚でお立ち寄りください。 あなたのよき「てんき」になりますように。

「お天気屋」っていつから言われてる?辞書をめくって見つかった、文学が描いた気分屋の系譜

「あの人は本当にお天気屋だからなあ」

さっきまでにこにこ笑っていたのに、ちょっとしたことで急に不機嫌になったり。

逆に、さっきまで落ち込んでいたのに、急にケロッとして楽しそうにしていたり。

気分がコロコロと変わりやすい人のことを、私たちは「お天気屋」や「気分屋」と呼びますよね。

以前、「お天気」という言葉がもともと主君のご機嫌を指す言葉だった、という歴史をお話ししました。

でも、机に向かってぼんやり考えているうちに、またしても別の疑問が湧いてきてしまったのです。

誰かの性格や気質を指して、わざわざ「〜屋」と名づけたのは、一体いつの時代の人たちだったんだろう、と。

江戸時代なのか、それとも明治や大正の近代文学のなかから生まれたのか。

気になって仕方がなくなり、また分厚い国語辞典や近代文学のデータベースを広げて、この愛らしくも厄介な性格類型のルーツを辿ってみることにしました。

目次

辞書に載っていた、意外な「大正・昭和モダン」の足跡

まずは一番頼りになる『日本国語大辞典』を開き、「おてんきや【御天気屋】」の項目を引いてみました。

「空模様が変わるように、気分の変わりやすい人。お天気者」

ここまでは誰もが知っている通りの説明です。

ところが、そのすぐ下に載っている文献上の初出例を見て、思わず「おやっ」と声が出ました。

『アパアトの女たちと僕と(1928年)』

作者は、新興芸術派として昭和初期のモダンな都市文化を描いた作家、龍胆寺雄(りゅうたんじ・ゆう)です。

作中のセリフとして、こんな風に登場していました。

「あんたは本当にお天気屋さんね」

1928年といえば、昭和3年。

江戸時代の長屋の噂話や、明治の文豪たちの重厚な小説ではなく。

都会のアパートメントでモダンガールやモダンボーイたちが軽やかに暮らしていた、大正デモクラシーから昭和初期の、都会的で少し乾いた空気感のなかに、はっきりと文字として記録されていたのです。

江戸の「〜屋」文化が、人の性格に着地するまで

もちろん、言葉自体は文字になる前から、市井の人々の口の端に上っていたはずです。

日本語には昔から、人の性格や癖を捉えて「〜屋」と呼ぶ面白い文化がありました。

恥ずかしがり屋、寂しがり屋、のんき屋、お調子者(屋)、頑固屋。

もともとは商売の屋号(酒屋、八百屋)だった「屋」という言葉を、江戸時代の人々は「その特徴を専門に商っているかのような人」という親しみと皮肉を込めて、人の性質にペタペタと貼り始めました。

そこに、以前お話しした「お天気=ご機嫌・移り気」という江戸庶民の感覚が合体したのです。

空模様がくるくると変わるように、四六時中気分を入れ替えて見せる人。

「おいおい、あいつはまるで天気を商売にしているみたいに機嫌が変わるな」

そんな江戸っ子たちの落語的なユーモアが、やがて「お天気屋」という親しみやすい愛称を生み出していったのでしょう。

近代文学が描いた、移ろいやすい人間の「心模様」

明治から大正にかけて、日本文学の世界では「人間の複雑な内面」をリアルに描くリアリズムが花開きました。

夏目漱石や芥川龍之介、志賀直哉といった作家たちは、常に一定で割り切れる人間なんてどこにもいないことを、小説のなかで繰り返し描いています。

朝起きたときの爽快感。

昼下がりにふと忍び寄る理由のない焦燥。

夕暮れどきに誰かの些細な仕草で胸がざわつく不穏さ。

人間という生き物は、自分自身でも制御できない「内なる気象現象」を抱えて生きているのだということ。

そんな人間のどうしようもない揺らぎを、文学者たちは見つめ続けていました。

だからこそ、「気分屋」という少し冷たい心理学的な響きよりも。

「お天気屋」という、空の雨や晴れに重ね合わせた柔らかい比喩のほうが、人々の日常会話にすんなりと溶け込んでいったのかもしれません。

空の機嫌に付き合うように、人の心を受け止める

誰かが急に不機嫌になったり、さっきと言っていることが変わったりすると、私たちはつい振り回されて疲れてしまいます。

「なんでそんなに気分屋なの?」と、相手を問い詰めたくなることもあるかもしれません。

でも、「お天気屋」という言葉の成り立ちを思い返してみると、少しだけ肩の力が抜けてきませんか。

今日が土砂降りの雨だからといって、空を責める人はいません。

「あ、急に雨雲がやってきたな」

そう思って、静かに傘を開くだけです。

人の心も、きっとそれとまったく同じなんですよね。

誰の胸の中にも、気圧の谷があり、偏西風が吹き、思いがけない夕立が降ることがあります。

「あの人は今、心の上を前線が通過しているんだな」

「しばらくしたら、また西から晴れ間が広がるだろう」

そうやって、相手の気分を「ただ通り過ぎていく自然現象」のように受け止めてみる。

それだけで、相手の不機嫌に巻き込まれて自分まで嵐に飛び込んでしまうのを、ふわりと防ぐことができる気がします。

自分の中の「お天気」とも、仲良く付き合っていく

机の上の本を閉じて、冷めてきた紅茶を飲みながら考えました。

誰かのことを「お天気屋さんね」と笑う前に。

自分自身だって、いつだって一定の晴天でいられるわけではありません。

理由もなくやる気が出ない日もあれば、急に誰かに優しくしたくなる日もある。

人間が自然の一部である以上、心の中に四季があり、日々の天気の移ろいがあるのは、ごく当たり前のことです。

「今日はちょっと心が曇り空だな」と感じたら、無理に笑おうとせず、温かい毛布にくるまって雨宿りをすればいい。

自分の中に住んでいる小さなお天気屋を、無理に矯正しようとせず、そのまま抱きしめてあげること。

昔の人たちが「お天気」という言葉に託した優しい眼差しは、きっと他人のためだけでなく、自分自身を許すための知恵でもあったはずです。

外の空がどんな気まぐれを見せても。

心の中の天気の変化を、のんびりと楽しむ心の余白を、いつも忘れずに持っていたいものですね。

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