晩秋の冷たい風が吹くころ、パラパラと屋根を叩く雨の音。
「あ、降ってきたかな」と思って傘を手に取ると、もう雲が切れて薄日が差している。
そんな、降ったかと思えばすぐにやんでしまう気まぐれな雨のことを、私たちは「時雨(しぐれ)」と呼びます。
これまで空の気配や言葉の根っこをいろいろ調べてきましたが、この「しぐれ」という響きには、どこか他とは違う特別な湿り気がありますよね。
冷え冷えとしているのに、どこか艶っぽくて、少し寂しい。
気象の分類で言えば、単なる「初冬の一時的な通り雨」にすぎません。
それなのに、なぜ日本の昔の人たちは、このささやかな通り雨をこんなにも格別なものとして扱い、無数の歌に詠み込んできたのでしょうか。
気になって、また机の上に『万葉集』や『古今和歌集』、語源の辞典を広げてみました。
そこには、移ろいゆく季節のグラデーションを、誰よりも愛おしそうに見つめていた先人たちの眼差しが待っていました。
語源に隠された「通り過ぎる」と「薄暗がり」
まずは、そもそも「しぐれ」という言葉がどこからやってきたのか、大和言葉の語源辞典を引いてみました。
この不思議な響きの由来には、いくつかの興味深い説があります。
ひとつは、さっと通り過ぎていく雨を意味する「過ぐる(すぐる)」の音が変化したという説。
そしてもうひとつは、雲が空を覆って一時的に薄暗くなる様子を表した「しばしくらき(暫暗)」や「しげくくらき」が縮まったという説です。
どちらの説にも共通しているのは、「一瞬の出来事」だということ。
空がさっと陰って、パラパラと冷たい雫を落とし、何事もなかったかのように去っていく。
漢字の「時雨」も、中国の古典では「ちょうど良い時に降る恵みの雨」という意味でしたが、日本では「時に(たまに)降る気まぐれな雨」の情景に重ねて当てられました。
定まりのない、束の間の空の表情。
その捕まえどころのない儚さこそが、古代の人々の心を強く引きつけた原点だったのです。
『万葉集』の時代、時雨は「山を染める絵の具」だった
日本最古の歌集である『万葉集』を開いてみると、「しぐれ」を詠んだ歌がたくさん見つかります。
面白いのは、万葉の歌人たちがこの雨を「山々の木の葉を美しく染め上げる魔法の水」のように捉えていたことです。
「長月の 時雨の雨に 濡れ通り 春日の山は 色付きにけり」
(九月の時雨に濡れとおって、春日の山は鮮やかに色づいたことだなあ)
昔の人々は、秋が深まるにつれて山が赤や黄色に染まっていくのは、天から降る時雨が木の葉を濡らして染めているのだと信じていました。
まだ本格的な冬の寒さに怯えるというよりは、実りの秋を華やかに彩ってくれる恵みとして、時雨を歓迎していたのです。
雨粒が木々の葉をひとつひとつ染め変えていく様子を、まるで筆で絵の具を落とすように想像していた万葉人のみずみずしい感性に、思わず口元がほころんでしまいます。
『古今和歌集』へ。雨は「涙」と「老い」の象徴へ深まる
ところが、時代が平安へと移り、『古今和歌集』のページをめくると、時雨の纏う空気がガラリと変化します。
色づいた紅葉を散らしてしまう冷たい雨。
そして、人の袖を濡らす「涙」や「忍び寄る老い」の象徴として詠まれるようになっていくのです。
小野小町は、こんな切ない歌を残しています。
「今はとて 我が身時雨に ふりぬれば 言の葉さへに 移ろひにけり」
(もう二人の仲はおしまいだと、我が身は時雨が降るように古びてしまったので、あなたの言葉までもが色あせて変わってしまいました)
雨が「降る」と、年齢を重ねて「古(ふ)る」を重ね合わせた見事な掛詞(かけことば)。
時雨の冷たさを、人の心の冷淡さや、自分自身の衰えの寂しさに重ね合わせているのですね。
また、ある歌人は亡くなった母を想い、悲しみの涙で濡れた袖を「時雨に濡れた紅葉のようだ」と詠みました。
山を染める明るい雨だった時雨は、平安貴族たちの研ぎ澄まされた美意識の中で、胸の奥にひっそり抱える哀しみを受け止めてくれる雨へと、その深みを増していったのです。
冬の入り口に立つ、板屋の音を聞き分ける贅沢
中世に近づくにつれて、時雨を愛でる感性はさらに静寂の極みへと向かいます。
平安時代末期の歌人、源頼実(みなもとのよりざね)には、こんな有名な一首があります。
「木の葉散る 宿は聞き分く 方ぞなき 時雨する夜も 時雨せぬ夜も」
(木の葉がハラハラと落ちてくるこの粗末な我が家では、どちらなのか聞き分けようもない。実際に時雨が降っている夜も、降っていない夜も)
パラパラと屋根に何かが当たる乾いた音。
それは冷たい時雨の雫なのか、それとも風に舞い散る枯れ葉なのか。
暗闇のなかでじっと耳を澄ませながら、冬の訪れの気配を静かに味わっている情景が浮かびます。
目に見える華やかさではなく、目に見えない季節の足音に心を澄ませる。
便利で明るい照明などなかった時代、昔の人たちは通り過ぎていく雨の音ひとつに、命の儚さや世界の移ろいを深く感じ取っていたのでした。
傘を閉じて、冷たい空気に鼻をすする
机の上の和歌集を閉じて、ふと窓の外を眺めてみました。
先ほどまで濡れていた道路が、雲の隙間から差すやわらかな夕暮れの光で、オレンジ色に光っています。
秋の終わりと、冬のはじまり。
どちらでもあって、どちらでもない、ほんの束の間の季節の隙間。
もし、昔の人たちがこの雨を「ただの通り雨」として片付けてしまっていたら、日本の文学や文化は、もっとずっと乾いたものになっていたかもしれません。
さっと降って、さっと去っていく。
そんな定まりのない空模様だからこそ、人はそこに自分の揺れる心をそっと重ね合わせることができたのでしょう。
もしこれからの季節、冷たい時雨に降られることがあったら。
「あいにくの天気だな」と身を縮める前に、ほんの数秒だけ足を止めて、屋根を叩く音に耳を傾けてみてください。
そこには千年前の人たちも聴いていた、冬がすぐそこまでやってきている静かな合図が、ちゃんと鳴り響いているはずですから。


