「今日はお天気がいいね」
朝の散歩ですれ違う人と挨拶を交わすとき、私たちはごく自然にそう言います。
「雨」や「雪」には滅多に「お」をつけないのに、どうして空の様子には「お天気」と丁寧な言葉を添えるのでしょうか。
美化語として、なんとなく耳ざわりを良くしているだけ。
普段ならそう流してしまうところですが、これまでいろんな「てんき」を追いかけてきた私のアンテナが、またピンと立ってしまいました。
そういえば、昔のドラマや小説で、こんなセリフを聞いたことがありませんか。
「今日はあの人の“お天気”が直らない」
「お父さんの“お天気”が変わらないうちに頼みに行こう」
空のことではなく、誰かの「ご機嫌」のことを「お天気」と呼ぶ、あの不思議な言い回しです。
空模様につける「お」と、人の機嫌を表す「お天気」。
このふたつは、どこかで繋がっているのでしょうか。
気になって仕方がなくなり、また分厚い国語辞典と古い記録をめくって、その言葉の足跡を確かめてみることにしました。
辞書に載っていた、もうひとつの「お天気」の意味
まずは『日本国語大辞典』で「おてんき【御天気】」の項目を引いてみます。
すると、そこには誰もが知っている空模様の解説のとなりに、こんな意味がはっきりと並んでいました。
「人のきげん。きげんのよしあし。また、その時々で気が変わること」
江戸時代の歌舞伎『三浦大助紅梅靮(1730年)』には、「このお天気で、星合寺が賑やかな事ぢゃわい」と晴天を喜ぶセリフが出てきます。
一方で、昭和初期の文学作品などでは、「役者なんてものは、お天気のはうがいいんだ」といったように、気分や機嫌の揺れ動きを指して使われていました。
さらに「お天気屋」と言えば、気分がコロコロと変わりやすい人のことを指しますよね。
晴れたり曇ったり、急に雨が降ったりする空の気まぐれさを人の心になぞらえた……と説明されることが多いこの言葉。
でも、歴史をもっと深く遡っていくと、話の順番はむしろ「逆」だったことが見えてくるのです。
平安の宮中で使われていた「天気」は、空のことではなかった
時計の針をぐっと巻き戻して、平安時代から中世の宮中を覗いてみます。
この時代、日記や歴史書に出てくる「天気」という言葉は、空の雲行きを指すものではありませんでした。
『九暦』や『平治物語』などの古い記録を開くと、そこにはこんな風に書かれています。
「君は猶、実にもと思し召したる御事もなく、天気他に異なり」
ここでの「天気」が意味していたのは、「天皇や上皇、主君のご意向やご機嫌」そのものでした。
平安時代、宮中で開かれた歌合(うたあわせ)の勝敗をめぐっても、「天気左にあり」という記録が残っています。
これは「空が左側に晴れていた」という意味ではなく、「帝(みかど)のお気持ち・ご判断が左側の歌に傾いた」という意味です。
古代の世界観において、地上の支配者である天皇は「天子」、つまり天の代理人でした。
天の神々が雨や嵐でその意思を示すように、主君がどんなお気持ちでいるのか。
それは宮中に仕える人々にとって、一族の命運を左右するほど重大な「雲の上のご機嫌」だったのです。
主君の顔色から、やがて空の模様へ
では、どうして「主君のご機嫌」だった言葉が、私たちの見上げる「空模様」へと移り変わっていったのでしょうか。
平安時代の人々にとって、空の様子と主君の心の動きは、比喩ではなく本気で重なり合うものでした。
帝が穏やかに微笑んでおられれば、それは春のうららかな陽気と同じ。
帝が怒りに震えていれば、それは雷鳴とどろく嵐と同じ。
絶対的な権力者の表情を窺いながら、貴族たちは「今日の天気(主君のご機嫌)はいかがだろうか」と息を潜めていたのです。
そんな宮中言葉が、時代の流れとともに少しずつ武士や庶民の暮らしへと降りてきました。
そして江戸時代に入り、日々の暮らしや商売が安定してくると、言葉の重心が「主君の顔色」から、「毎日の生活を左右する、天候そのもの」へと移っていきます。
雨が降れば仕事にならない大工さんや、風の向きで舟が出せない船頭さんたち。
彼らにとって、空模様はまさに「機嫌を損ねてほしくない、頭上のご主人様」そのものでした。
敬語の「御(お)」がついたのは、単に言葉を上品にするためだけではありません。
「どうか機嫌よく、穏やかに晴れていてくださいね」という、自然への切実な敬意と祈りが、そのたった一文字に込められていたのです。
人の心も、空と同じように移ろうもの
こうして言葉の歴史を眺め直してみると、「あの人はお天気屋だから」という表現にも、なんだか少し違った温かみが感じられます。
私たちは誰かの機嫌が悪かったり、急に落ち込んだりしているのを見ると、「どうしてそんなにコロコロ変わるんだろう」と戸惑ってしまいがちです。
でも、もともと「お天気」とは、人間にはコントロールできない自然の空模様と、同じ根っこを持っていた言葉でした。
晴れの日があれば、どんより曇る日もある。
突然ざあざあと夕立が降ったかと思えば、西の空が真っ赤に染まって虹がかかることもある。
人の心も、きっとそれとまったく同じなんですよね。
四六時中、一点の曇りもない快晴でいられる人間なんて、どこにもいません。
自分自身の機嫌だって、朝起きたときの体調や、ふと耳にしたニュースひとつで、風向きが変わってしまうことがあります。
「ああ、今日は自分の中の空が少し曇っているな」
「あの人の心の上で、いま小さな雨雲が通り過ぎているところなんだな」
そうやって、人の心の浮き沈みを「空の天気」のようにそのまま眺めてみると、無理にコントロールしようとする焦りが、ふっと薄れていくような気がします。
空を見上げて、静かに息を合わせる
窓の外を眺めると、薄い雲が風に吹かれて、ゆっくりと形を変えていました。
昔の宮中で誰かが窺っていた「雲の上のご機嫌」は、何百年もの時間をかけて、私たちが朝の道端で交わす優しい挨拶になりました。
「いいお天気ですね」
その言葉の奥には、昔の人たちが天を見上げ、お互いの顔を見つめ合いながら大切にしてきた、相手を気遣うあたたかな眼差しが、今もちゃんと息づいています。
外の空がどんな表情をしていても。
自分の心がどんな色に染まっていても。
「まあ、今日はお天気がそうなんだから仕方ないか」と肩の力を抜いて。
移りゆく空と自分の心に、のんびりと呼吸を合わせていけたらいいなと思います。


